top of page
All Posts


正しい言葉が重なるとき、あなたはどこにいるのか
ヨブ記5章 エリファズは語り続ける。 「神の懲らしめを軽んじてはならない。」 「神は打つが、また癒やされる。」 苦しみには意味がある。 最後には回復する。 ヨブに向けて、そう語る。 ヨブは、人の言葉の中にいる。 すべてを失い、体も打たれている。 それでも、正しい言葉が重ねられていく。 神の語りに応答する、 「わたしのしもべ」と呼ばれたヨブ。 今、神の語りと人の説明のあいだに立たされている。 神の語りの中にいたはずの者が、人の言葉の中で、揺れている。 意味がある。 無駄ではない。 やがて良くなる。 その言葉は、間違いとは言えない。 しかし、どこかでずれていく。 正しい言葉が、今ここにいる自分と重ならない。 人は理由を求めて、説明にとどまろうとする。 安心できると思うから。 説明が重なるほど、神の語りから遠ざかる。 これでは、語りにとどまれない。 語りの中にとどまっていたヨブが、揺れ始めている。 語りから離れそうになっている。 同じことが、 いま、人の内側で起きている。 朝の光の中で、言葉と向き合う時間。 正しい言葉が重ねら
より子 逆瀬川
4月17日読了時間: 1分


正しいことを言われたとき、あなたはどこにいるのか
ヨブ記4章 友人エリファズが語り始める。 「あなたは多くの人を励ましてきた。」 「しかし今、それが自分に起こると耐えられないのか。」 さらに言う。 「罪のない者が滅びるだろうか。」 苦しみには原因がある。 それは人の側にある。 正しさが語られる。 ここで現れるのは「人の正しさ」である。 苦しみには理由がある。 原因がある。 だから説明できる。 この構造は一見正しい。 しかし、ヨブに起きている出来事は、 この枠に収まらない。 正しさが語られるほど、 ヨブの現実とずれていく。 ここで問われているのは、正しいかどうかではない。 どこに立つかである。 人は苦しみを見ると、説明したくなる。 なぜ起きたのか。 何が間違っていたのか。 それが分かれば安心できる。 しかし、その言葉が人を支えるとは限らない。 正しい言葉が、相手を孤独にすることがある。 正しさは、人を支えるか 正しいことを言われたとき、あなたはどこにいるのか。 正しさの中か。 それとも、神の前に立ち続けるのか。
より子 逆瀬川
4月16日読了時間: 1分


生きていることを否定したくなるとき、あなたはどこにいるのか
ヨブ記3章 ヨブは口を開き、自分の生まれた日をのろう。 「私の生まれた日は滅びうせよ」 生まれなければよかった。 存在しなければよかった。 これまで保たれていた言葉が崩れる ここで初めて、ヨブの内側が露わになる。 1章・2章では外側が崩れても、言葉は保たれていた。 3章では内側が崩れる。 神への言葉ではなく、存在そのものへの否定。 それでも一つの事実が残る。ヨブは沈黙していない。 神に向かってではなくとも、語り続けている。 完全に離れてはいない。境界線の上に立っている。 人は限界に達すると、こう言いたくなる。 なぜ生きているのか。いなければよかった。 ここで起きているのは、 信仰の崩壊ではない。位置の揺れである。 神を否定する前に、自分の存在を否定し始める。 それでも語りは止まらない。 生きていることを否定したくなるとき、あなたはどこにいるのか。 沈黙の中か。 雨の中で 自分の存在と出会う それとも、崩れながらも語りの中にいるのか。
より子 逆瀬川
4月15日読了時間: 1分


理由が見えないとき、あなたはどこにいるのか
ヨブ記2章 ヨブはすべてを失ったあと、さらに体に重い病を負う。 足の裏から頭のてっぺんまで、苦しみに覆われる。 妻は言う。「神をのろって死になさい。」 ヨブは答える。 「私たちは神から幸いを受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか。」 理由は示されない。出来事だけが続く。 ここでも問われているのは理由ではない。位置である。 なぜここまで続くのか。どこで終わるのか。 説明はない。 外側の状況はさらに悪化する。前章よりも深いところまで崩れる。 それでもヨブの言葉は変わる。神との関係の中に留まっている。 理解できるからではない。納得したからでもない。 理由が見えないまま、立つ場所だけが保たれている。 人は理由が見えないと、 不安定になる。説明を求める。意味を探す。 しかし理由はすぐには与えられないことがある。 そのとき、人は二つに分かれる。 理由の中に立とうとするか。 神の前に立とうとするか。 ヨブは理由を持たなかった。 それでも、神の前から離れなかった。 理由が見えないとき、あなたはどこにいるのか。 説明の中か。 理由がなくても 離れないヨブ
より子 逆瀬川
4月14日読了時間: 2分


奪われた時、あなたはどこにいるのか
ヨブ記1章 大切にしていたものが、急に失われる。 仕事。人間関係。健康。 一瞬で状況が変わるとき、人は立ち止まる。 なぜ起きたのか。どうして自分なのか。 答えを探し始める。 静かに自分と語る朝 あなたはどこにいるのか。 ヨブ記には、すべてを失った人が出てくる。 ヨブは一日のうちに、財産も、子どもたちも失った。 何も残らない状況。 そのとき、ヨブはこう言った。 「主は与え、主は取られる。」 理由は語られていない。説明もない。 ただ、この一言だけが残る。 人は失ったとき、失ったものに心を引き寄せられる。 取り戻したい。納得したい。 しかしヨブは、そこに留まらなかった。 状況ではなく、神に向いた。 奪われた出来事の中で、どこに立つのか。 それが問われている。 すべてが崩れたとき、あなたはどこにいるのか。 失ったものの中にいるのか。 それとも、神の前に立っているのか。
より子 逆瀬川
4月13日読了時間: 1分


あなたはどこにいるのか
何に対応しているのか 聖書を学ぶ。多くの人が、そこに答えを求めている。 終末預言として。救いの歴史として。キリストの証しとして。 学べば学ぶほど、理解は深まっていく。知識も増える。見える世界も広がる。 しかし、ふと立ち止まる。 今の自分は、変わっているのだろうか。 幸せになりたくて学んだはずなのに、何も変わらない。 豊かさを願って祈ったはずなのに、満たされない。 むしろ、理解が進むほど、現実の自分が取り残されていく。 いったい、何が起きているのだろうか。 聖書は、説明の書ではない。 そこには、神が語る場面があり、人がそれに応答する姿が記されている。 その中で、最初に響いた問いがある。 「あなたはどこにいるのか」(創世記3章9節) 神は、人に説明を与えなかった。知識を求めなかった。 ただ、位置を問われた。 どこにいるのか。 この問いは、過去の出来事ではない。 今、この瞬間にも向けられている。 神は語られている。 その語りに対して、人はすでに応答している。 では、わたしは。 何に応答しているのか。
より子 逆瀬川
4月12日読了時間: 1分


漱石と太宰が描いた「喪失」の正体とは何か
日本のトップノベルは、いまだに『人間失格』と『こころ』が二分している。欧米では『ロード・オブ・ザ・リング』や『ハックルベリー・フィン』、『ハリー・ポッター』など、夢や冒険、希望を描く物語が読み継がれているのに、なぜ日本では“人の本質”を問う小説が圧倒的に支持され続けるのか。
より子 逆瀬川
3月18日読了時間: 2分


神学ではなく、交わり
神学ではなく、交わり 聖書が語る“いのち”は、 説明でも、理屈でも、思想でもない。 それは、 神との関わりという実体。 キリストの霊との交わりという現実。 説明ではなく、実体 説明は頭に触れる。 実体はいのちに触れる。 聖書が置いているのは、 意味ではなく、 存在そのもの。 理屈ではなく、いのち 理屈は積み上がる。 いのちは吹き込まれる。 触れたとき、 深いところで“そうだ”とわかる。 それが真理。 思想ではなく、関わり 思想は人が作る。 関わりはいのちが流れる。 聖書が開いているのは、 考えではなく、 神とのつながり。 神学ではなく、交わり 神学は外側から眺める。 交わりはいのちが内側に入る。 語る体系ではなく、 与えられる実体。 聖書が示しているのは、 キリストの霊との交わりという、静かな現実。 **いのちは、説明では届かない。 交わりでしか届かない。** 言葉を理解するのではなく、 いのちが吹き込まれる。 腑に落ちるとき、 いのちが入る。 それが、 聖書の語る“いのち”。 静けさの中に、いのちの気配
より子 逆瀬川
3月11日読了時間: 1分


ひかりといういのちが開く奥義
原語の息に触れていると、
“ひかりといういのち”が
静かにみことばを開いていく瞬間があります。
奥義は、人の理解ではなく、
与えられるもの。
聖霊がそっと示してくださる
御国の物語がそこに流れています。
より子 逆瀬川
3月9日読了時間: 2分


インターネットという大海原のなかで
情報が絶えることなく押し寄せて、 真実と偽りの境目が見えにくくなるような混雑の中で・・ いつの間にか、思いも速度を上げながら、 行き先知らずの道を歩き続けてしまう。 どこで立ち止まれば良いのかもわからなくなるほど、 世の中は、雑音で満ちている。 インターネットという大海原に、 微かないのちの気配が感じられる 聞く耳が、そばだつような小さな小さな揺らぎ 鼓動のように静かに静かに鳴り響く 涸れることなく湧き続ける泉のように 心地良いそよ風のように通り過ぎていく 情報の奔流の中で、ふと立ち止まる 触れた者だけが気づく いのちの気配 体温にも似た温もりの中で そっと 足を延ばす それまでの飢え渇きを癒すように ゆっくりと、思う存分 泉の水を飲む その時、静けさは、ご臨在の気配に満たされる。 大海原の中で生まれた、最も小さくて甘い水飲み場 静かな朝に、耳がそばだつ 聖なるいのちの揺らぎが、このサイトを支えている。
より子 逆瀬川
3月5日読了時間: 1分


キリストを探せ
聖書は、倫理や道徳の教科書ではなく、人生の取扱説明書でもない。 そこに隠されているのは、ただ一つ——御子の姿。 旧約のページのあちこちに、御子はそっと身を潜めている。 まるで「ウォーリーを探せ」のように、しかしもっと深く、もっと静かに、もっと美しく。 創世記の光、荒野のマナ、岩から流れる水、詩篇の御子、イザヤのしもべ。 どれも、御子が「ここだよ」と小さく手を振っている影。 聖書とは、御子がかくれんぼしている書物なのだ。 そして、70人訳は、その影がいちばん鮮明に浮かび上がる“宝の地図”。 新約の著者たちが使った旧約。 パウロが奥義を見た旧約。 ヨハネが光を見た旧約。 だから、70人訳を通すと、御子の姿が自然に輪郭を帯びてくる。 聖書を読むとは、宝探しの旅に出ること。 読む人は、トレジャーハンター。 今日はどこに御子が隠れているのだろう。 どんな影として現れるのだろう。 その期待と遊び心こそ、聖書を読む者の特権。 聖書は、いのちというかけがえのない光と出会う宴会場。 光のそばで、いのちがそっと息をしている場所 御子を見つけるたびに、心が躍り、胸が熱
より子 逆瀬川
3月4日読了時間: 1分


神の痛みの神学
神学者・北森嘉蔵の『神の痛みの神学』という本がある。 題名のとおり、神が痛むという一点を 静かに、深く見つめた本だ。 北森が語ろうとしたのは、 人間の感情を神に重ねることではない。 いのちを与えた方が、 そのいのちとの断絶を ご自身の内側で引き受けるという痛み。 悲しみでも、怒りでも、嘆きでもない。 断絶そのものを抱き込む痛み。 人を責めるための痛みではなく、 人を抱き戻すための痛み。 十字架は、 罰の象徴ではなく、 断絶を越えるために 神がご自身の中で選ばれた道。 北森が見ていたのは、 神が痛むということが、 愛の感情ではなく、 いのちの共有そのものの証 だということ。 神は痛みを避ける方ではなく、 痛みを通して いのちを戻す方。 この視座に触れると、 “神が痛む”という言葉が 静かに深く沈んでいく。 静かな朝に、心がひらく。
より子 逆瀬川
3月2日読了時間: 1分


モーパッサン『首飾り』が映す影
モーパッサン『首飾り』に映る見栄と虚栄の影を、光の側から見つめ直す。闇を知るのは、すでに光に取り込まれた者のしるし。
より子 逆瀬川
3月1日読了時間: 2分


「モーパッサンの鏡に映るもの」
「モーパッサン『脂肪の塊』を読み返すと、胸の奥にひやりとした風が通り抜ける。
笑ってしまうほど滑稽で、どこかで見覚えのある影が、静かにこちらを見つめてくる。
人は追い詰められたとき、どんな顔を見せるのだろう──そんな問いが、今日も私の前に置かれている。」
より子 逆瀬川
2月28日読了時間: 1分


もうひとつの苦しみ
苦しみには、二つの種類があるように思う。 ひとつは、この世で誰もが経験する苦しみ。 環境や出来事、人との関わりの中で生まれる痛み。 生きていれば避けられない、外側からやってくる重さ。 もうひとつは、もっと静かで、もっと内側に触れてくる苦しみ。 それは、自分の心がみこころから離れてしまったときに、 ふと胸の奥に生まれる、言葉にならない痛み。 何かが違う、と知らせてくるような、 小さなズレのような、でも深いところに響く痛み。 不思議なのは、この二つ目の苦しみは、 自分が直接何かをしたわけでもないのに、 ふとした瞬間に訪れることがあるということ。 まるで、自分の内側を通り抜けていくように、 静かに、でも確かに触れてくる。 それは、キリストが味わわれた苦しみの“余韻”のようなものかもしれない。 みこころから離れる痛みを、最初に、そして完全に味わわれた方。 だからこそ、その痛みは今も世界に流れていて、 ときどき、私たちの心にも触れてくるのだと思う。 この世の苦しみとは違う苦しみがある。 それは、自分が直接関わっていなくても、 なぜか味わうことができる苦しみ
より子 逆瀬川
2月26日読了時間: 2分




「私だけならいいのだけど・・」
孤独は心の弱さではなく、神との断絶が生む沈黙だと気づいた体験を綴る。闇の底で光を待つ場所としての孤独を、みことばの物語から見つめ直す文章。
より子 逆瀬川
2月14日読了時間: 2分
闇の底で、ゴーギャンは光をみたのか
絶望の闇に刻まれた問いが、聖書の物語に触れるとき光へと変わる。人はどこから来てどこへ行くのか——沈黙の底に息づく光を見つめる文章。
より子 逆瀬川
2月12日読了時間: 2分
bottom of page

