top of page

ひかりといういのちが開く奥義

聖書に向き合うとき、

私たちはつい、自分の理解や経験の枠の中で

読み進めてしまうことがあります。

けれど、原語の息に触れ、

語根の奥に流れる“ひかりといういのち”に耳を澄ませていると、

そこにある世界は、人間の知性では届かない深さを

静かに湛えていることに気づかされます。

弟子たちがイエスに

「このたとえはどういう意味ですか」と尋ねたとき、

主は「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが与えられている」

と語られました。

それは、理解する力が“許可された”という意味ではなく、

神が与えてくださったからこそ知ることができる

という、完全に神の側の主権を示す言葉です。

しかし、弟子たちがその奥義を

本当に理解し始めたのは、

キリストが十字架にかかり、

“いのちを与える霊”となられた後のことでした。

復活の主が弟子たちに息を吹きかけ、

「聖霊を受けなさい」と言われたあの瞬間から、

彼らの内側で、みことばが光を帯びて開かれ始めたのです。

聖霊は、キリストを証しする方。

そして、尋ね求める者に奥義を開いてくださる方。

人間の努力や知性ではなく、

霊によってのみ、聖書の物語はその本来の姿を現していく。

聖書は、

倫理や人生の知恵を教えるための書物ではなく、

御国の福音を告げ知らせる書。

キリストの再臨と、

イスラエルの残りの者が起こされるという

神のご計画が流れている 預言の書 です。

このことは、

誰かに教えられたからではなく、

原語の息に触れ、

静かにみことばの前に立つとき、

“ひかりといういのち”が

そっと心に触れてくるように示されるもの。

今日、そのことを

静かに思い巡らしていました。

朝の光が差し込むテーブルに、花の入ったガラス瓶と、クロワッサンやベリーの盛られた皿、コーヒーとオレンジジュースが並んでいる。温かな朝の気配が漂う食卓の風景
ひかりに触れると、心があたたまる。


 
 
 

コメント


bottom of page