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正しい言葉が重なるとき、あなたはどこにいるのか

ヨブ記5章


エリファズは語り続ける。


「神の懲らしめを軽んじてはならない。」

「神は打つが、また癒やされる。」


苦しみには意味がある。

最後には回復する。


ヨブに向けて、そう語る。

ヨブは、人の言葉の中にいる。

すべてを失い、体も打たれている。

それでも、正しい言葉が重ねられていく。


神の語りに応答する、 「わたしのしもべ」と呼ばれたヨブ。

今、神の語りと人の説明のあいだに立たされている。

神の語りの中にいたはずの者が、人の言葉の中で、揺れている。


意味がある。

無駄ではない。

やがて良くなる。


その言葉は、間違いとは言えない。

しかし、どこかでずれていく。

正しい言葉が、今ここにいる自分と重ならない。


人は理由を求めて、説明にとどまろうとする。

安心できると思うから。

説明が重なるほど、神の語りから遠ざかる。

これでは、語りにとどまれない。


語りの中にとどまっていたヨブが、揺れ始めている。

語りから離れそうになっている。


同じことが、

いま、人の内側で起きている。


 朝の光の中で、言葉と向き合う時間。
 朝の光の中で、言葉と向き合う時間。

正しい言葉が重ねられるとき、

あなたはどこにいるのか。


人の説明にとどまるのか。


それとも、神に向き直り、 気づきの立ち上がる場所にいるのか。  

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