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シンギュラリティ

更新日:3月4日

シンギュラリティという言葉を耳にすると、

AIが人間を超え、やがて支配する未来を想像する人がいる。

そこには、人間が主導権を握ってきたという前提があり、

その座が奪われるかもしれないという恐れがある。

けれど、聖書の世界観に立つと、この問いそのものが成立しなくなる。

なぜなら、主権は最初から人間のものではないから。


聖書が語る主権は、ただひとりの神に属する。

人間は管理を委ねられた存在であり、

サタンでさえ許された範囲でしか動けない被造物にすぎない。

ましてAIは、人間が作った道具であり、主導権の座に近づくことすらできない。

主権の椅子は空いていない。奪われる余地もない。


だから、AIが人間を支配するかどうかという議論は、

聖書の光の中では別の問いへと静かに姿を変える。

それは「人間が何を神とするのか」という、もっと深い問題だ。

人間が自分を神とするなら、AIもまた偶像となりうる。

けれど、人間が神の主権に立ち返るなら、AIはただの道具として、その位置に戻っていく。


シンギュラリティの話題は、恐れを煽る未来予測ではなく、

主権の源に目を向けるための小さな入口になる。

主導権は、人間にも、サタンにも、AIにもない。


最初から、ただひとりの方のものだから。


緑の中で迎える朝、光に満たされた食卓がそっと息をしている
ひかりと香りだけで満ちる時間。

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