闇の底で、ゴーギャンは光をみたのか
- Yoriko Sakasegawa
- 2月12日
- 読了時間: 2分
更新日:5 日前

ゴーギャンは、人生の終わりに近い闇の中で問いを刻んだ。
「われわれはどこから来たのか。
われわれは何者か。
われわれはどこへ行くのか。」
そして、もうひとつの問いが静かに浮かぶ。
彼は絶望して終わったのか。
それとも、絶望の中に光を見たのか。
この問いは、絶望の叫びではなく、
封印の裂け目からそっと漏れ出す光のように見える。
人が自分を起点に世界を見つめるとき、
答えは閉ざされ、問いだけが深く沈んでいく。
けれど沈黙の底には、まだ名のつかない光が、
息をひそめて待っている。
聖書は、その光の名を語る。
初めに、神が語られた。
初めに、神が息を吹きかけられた。
初めに、神が「よし」と言われた。
人の問いよりも前に、
神の物語は静かに流れ始めていた。
私たちはどこから来たのか——神のいのちの泉から。
私たちは何者か——神のかたちを帯び、神に覚えられた者。
私たちはどこへ行くのか——神が住まわれる都、新しいエルサレムへ。
そこでは、涙も死も悲しみも、もはや影の名を持たない。
人が「どこへ行くのか」と怯えるのではなく、
神がどこへ連れて行かれるのかが黙示される場所。
世界は喪失を現実と呼び、希望を幻想と呼ぶ。
けれど、神の御国の福音は、
封印された問いを開き、失われたものを回復へと引き戻す。
それは、過去を修復する力ではなく、
初めから定められていた光へ導く力である。
ゴーギャンの問いもまた、
絶望の終わりではなく、光の始まりの裂け目なのかもしれない。
その光は、いまも静かに、わたしたちの問いの奥で息をしている。



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