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闇の底で、ゴーギャンは光をみたのか

更新日:5 日前

日の出が背景にある牧草地で、羊が立って後ろを向いている。柔らかな光がシーンを包み、穏やかな雰囲気を醸し出している。
沈黙の底で、光はひそやかに待っている。

ゴーギャンは、人生の終わりに近い闇の中で問いを刻んだ。

「われわれはどこから来たのか。

 われわれは何者か。

 われわれはどこへ行くのか。」


そして、もうひとつの問いが静かに浮かぶ。

彼は絶望して終わったのか。

それとも、絶望の中に光を見たのか。


この問いは、絶望の叫びではなく、

封印の裂け目からそっと漏れ出す光のように見える。


人が自分を起点に世界を見つめるとき、

答えは閉ざされ、問いだけが深く沈んでいく。

けれど沈黙の底には、まだ名のつかない光が、

息をひそめて待っている。


聖書は、その光の名を語る。

初めに、神が語られた。

初めに、神が息を吹きかけられた。

初めに、神が「よし」と言われた。


人の問いよりも前に、

神の物語は静かに流れ始めていた。


私たちはどこから来たのか——神のいのちの泉から。

私たちは何者か——神のかたちを帯び、神に覚えられた者。

私たちはどこへ行くのか——神が住まわれる都、新しいエルサレムへ。

     そこでは、涙も死も悲しみも、もはや影の名を持たない。


人が「どこへ行くのか」と怯えるのではなく、

神がどこへ連れて行かれるのかが黙示される場所。


世界は喪失を現実と呼び、希望を幻想と呼ぶ。


けれど、神の御国の福音は、

封印された問いを開き、失われたものを回復へと引き戻す。

それは、過去を修復する力ではなく、

初めから定められていた光へ導く力である。

ゴーギャンの問いもまた、

絶望の終わりではなく、光の始まりの裂け目なのかもしれない。


その光は、いまも静かに、わたしたちの問いの奥で息をしている。

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