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闇の底で、ゴーギャンは光をみたのか

更新日:4月17日


われわれはどこからきたのか
われわれはどこからきたのか

ゴーギャンは、人生の終わりに近い闇の中で問いを刻んだ。

「われわれはどこから来たのか。

 われわれは何者か。

 われわれはどこへ行くのか。」


そして、もうひとつの問いが静かに浮かぶ。

彼は絶望して終わったのか。

それとも、絶望の中に光を見たのか。


この問いは、絶望の叫びではなく、

封印の裂け目からそっと漏れ出す光のように見える。


人が自分を起点に世界を見つめるとき、

答えは閉ざされ、問いだけが深く沈んでいく。

けれど沈黙の底には、まだ名のつかない光が、

息をひそめて待っている。


聖書は、その光の名を語る。

初めに、神が語られた。

初めに、神が息を吹きかけられた。

初めに、神が「よし」と言われた。


人の問いよりも前に、

神の物語は静かに流れ始めていた。


私たちはどこから来たのか——神のいのちの泉から。

私たちは何者か——神のかたちを帯び、神に覚えられた者。

私たちはどこへ行くのか——神が住まわれる都、新しいエルサレムへ。

     そこでは、涙も死も悲しみも、もはや影の名を持たない。


人が「どこへ行くのか」と怯えるのではなく、

神がどこへ連れて行かれるのかが黙示される場所。


世界は喪失を現実と呼び、希望を幻想と呼ぶ。


けれど、神の御国の福音は、

封印された問いを開き、失われたものを回復へと引き戻す。

それは、過去を修復する力ではなく、

初めから定められていた光へ導く力である。

ゴーギャンの問いもまた、

絶望の終わりではなく、光の始まりの裂け目なのかもしれない。


その光は、いまも静かに、わたしたちの問いの奥で息をしている。

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