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漱石と太宰が描いた「喪失」の正体とは何か
日本のトップノベルは、いまだに『人間失格』と『こころ』が二分している。 欧米では『ロード・オブ・ザ・リング』や『ハックルベリー・フィン』、『ハリー・ポッター』など、夢や冒険、希望を描く物語が読み継がれているのに、 なぜ日本では“人の本質”を問う小説が圧倒的に支持され続けるのか。 それは、 日本人が「軸を失ってしまった」という現実を象徴しているのではないか。 漱石が見つめた「武士道の終焉」と時代の崩壊 夏目漱石は、明治維新の風に吹かれながら生きた。 文明開化の激流の中で、価値観が根こそぎ揺さぶられていく時代。 そこに追い打ちをかけるように、 明治天皇の崩御、 その後を追うように乃木希典が殉死する。 この二つの出来事は、 日本人の精神的支柱であった「武士道」が大きく変質し始めた象徴のようだ。 漱石は、その激動と喪失を、 まるでレクイエムのように作品に書き出している。 『こころ』に流れる深い孤独と罪責感は、 “一つの時代が終わる痛み”のように感じる。 戦後の寵児、太宰治。 彼は、「戦後の虚無」と支えの喪失を描いた。 すべての価値観が塗り替えられ、...
Yoriko Sakasegawa
5 日前読了時間: 2分


神学ではなく、交わり
神学ではなく、交わり 聖書が語る“いのち”は、 説明でも、理屈でも、思想でもない。 それは、 神との関わりという実体。 キリストの霊との交わりという現実。 説明ではなく、実体 説明は頭に触れる。 実体はいのちに触れる。 聖書が置いているのは、 意味ではなく、 存在そのもの。 理屈ではなく、いのち 理屈は積み上がる。 いのちは吹き込まれる。 触れたとき、 深いところで“そうだ”とわかる。 それが真理。 思想ではなく、関わり 思想は人が作る。 関わりはいのちが流れる。 聖書が開いているのは、 考えではなく、 神とのつながり。 神学ではなく、交わり 神学は外側から眺める。 交わりはいのちが内側に入る。 語る体系ではなく、 与えられる実体。 聖書が示しているのは、 キリストの霊との交わりという、静かな現実。 **いのちは、説明では届かない。 交わりでしか届かない。** 言葉を理解するのではなく、 いのちが吹き込まれる。 腑に落ちるとき、 いのちが入る。 それが、 聖書の語る“いのち”。 静けさの中に、いのちの気配
Yoriko Sakasegawa
3月11日読了時間: 1分


ひかりといういのちが開く奥義
原語の息に触れていると、
“ひかりといういのち”が
静かにみことばを開いていく瞬間があります。
奥義は、人の理解ではなく、
与えられるもの。
聖霊がそっと示してくださる
御国の物語がそこに流れています。
Yoriko Sakasegawa
3月9日読了時間: 2分


インターネットという大海原のなかで
情報が絶えることなく押し寄せて、 真実と偽りの境目が見えにくくなるような混雑の中で・・ いつの間にか、思いも速度を上げながら、 行き先知らずの道を歩き続けてしまう。 どこで立ち止まれば良いのかもわからなくなるほど、 世の中は、雑音で満ちている。 インターネットという大海原に、 微かないのちの気配が感じられる 聞く耳が、そばだつような小さな小さな揺らぎ 鼓動のように静かに静かに鳴り響く 涸れることなく湧き続ける泉のように 心地良いそよ風のように通り過ぎていく 情報の奔流の中で、ふと立ち止まる 触れた者だけが気づく いのちの気配 体温にも似た温もりの中で そっと 足を延ばす それまでの飢え渇きを癒すように ゆっくりと、思う存分 泉の水を飲む その時、静けさは、ご臨在の気配に満たされる。 大海原の中で生まれた、最も小さくて甘い水飲み場 静かな朝に、耳がそばだつ 聖なるいのちの揺らぎが、このサイトを支えている。
Yoriko Sakasegawa
3月5日読了時間: 1分


キリストを探せ
聖書は、倫理や道徳の教科書ではなく、人生の取扱説明書でもない。 そこに隠されているのは、ただ一つ——御子の姿。 旧約のページのあちこちに、御子はそっと身を潜めている。 まるで「ウォーリーを探せ」のように、しかしもっと深く、もっと静かに、もっと美しく。 創世記の光、荒野のマナ、岩から流れる水、詩篇の御子、イザヤのしもべ。 どれも、御子が「ここだよ」と小さく手を振っている影。 聖書とは、御子がかくれんぼしている書物なのだ。 そして、70人訳は、その影がいちばん鮮明に浮かび上がる“宝の地図”。 新約の著者たちが使った旧約。 パウロが奥義を見た旧約。 ヨハネが光を見た旧約。 だから、70人訳を通すと、御子の姿が自然に輪郭を帯びてくる。 聖書を読むとは、宝探しの旅に出ること。 読む人は、トレジャーハンター。 今日はどこに御子が隠れているのだろう。 どんな影として現れるのだろう。 その期待と遊び心こそ、聖書を読む者の特権。 聖書は、いのちというかけがえのない光と出会う宴会場。 光のそばで、いのちがそっと息をしている場所 御子を見つけるたびに、心が躍り、胸が熱
Yoriko Sakasegawa
3月4日読了時間: 1分


シンギュラリティ
AIが人間を支配するという物語は、主権が人間にあるという前提から生まれている。けれど、聖書の世界ではその問いは最初から成立しない。主権は、人間にも、サタンにも、AIにもなく、ただひとりの方に属しているからだ。
Yoriko Sakasegawa
3月3日読了時間: 2分


神の痛みの神学
神学者・北森嘉蔵の『神の痛みの神学』という本がある。 題名のとおり、神が痛むという一点を 静かに、深く見つめた本だ。 北森が語ろうとしたのは、 人間の感情を神に重ねることではない。 いのちを与えた方が、 そのいのちとの断絶を ご自身の内側で引き受けるという痛み。 悲しみでも、怒りでも、嘆きでもない。 断絶そのものを抱き込む痛み。 人を責めるための痛みではなく、 人を抱き戻すための痛み。 十字架は、 罰の象徴ではなく、 断絶を越えるために 神がご自身の中で選ばれた道。 北森が見ていたのは、 神が痛むということが、 愛の感情ではなく、 いのちの共有そのものの証 だということ。 神は痛みを避ける方ではなく、 痛みを通して いのちを戻す方。 この視座に触れると、 “神が痛む”という言葉が 静かに深く沈んでいく。 静かな朝に、心がひらく。
Yoriko Sakasegawa
3月2日読了時間: 1分


モーパッサン『首飾り』が映す影
モーパッサン『首飾り』に映る見栄と虚栄の影を、光の側から見つめ直す。闇を知るのは、すでに光に取り込まれた者のしるし。
Yoriko Sakasegawa
3月1日読了時間: 2分


「モーパッサンの鏡に映るもの」
「モーパッサン『脂肪の塊』を読み返すと、胸の奥にひやりとした風が通り抜ける。
笑ってしまうほど滑稽で、どこかで見覚えのある影が、静かにこちらを見つめてくる。
人は追い詰められたとき、どんな顔を見せるのだろう──そんな問いが、今日も私の前に置かれている。」
Yoriko Sakasegawa
2月28日読了時間: 1分


もうひとつの苦しみ
苦しみには、二つの種類があるように思う。 ひとつは、この世で誰もが経験する苦しみ。 環境や出来事、人との関わりの中で生まれる痛み。 生きていれば避けられない、外側からやってくる重さ。 もうひとつは、もっと静かで、もっと内側に触れてくる苦しみ。 それは、自分の心がみこころから離れてしまったときに、 ふと胸の奥に生まれる、言葉にならない痛み。 何かが違う、と知らせてくるような、 小さなズレのような、でも深いところに響く痛み。 不思議なのは、この二つ目の苦しみは、 自分が直接何かをしたわけでもないのに、 ふとした瞬間に訪れることがあるということ。 まるで、自分の内側を通り抜けていくように、 静かに、でも確かに触れてくる。 それは、キリストが味わわれた苦しみの“余韻”のようなものかもしれない。 みこころから離れる痛みを、最初に、そして完全に味わわれた方。 だからこそ、その痛みは今も世界に流れていて、 ときどき、私たちの心にも触れてくるのだと思う。 この世の苦しみとは違う苦しみがある。 それは、自分が直接関わっていなくても、 なぜか味わうことができる苦しみ
Yoriko Sakasegawa
2月26日読了時間: 2分


遊びをせんとや生まれけむ
世界は義務から始まったのではない。喜びから始まった。 戯れは 御国のひそやかな影である。
Yoriko Sakasegawa
2月15日読了時間: 1分


「私だけならいいのだけど・・」
孤独は心の弱さではなく、神との断絶が生む沈黙だと気づいた体験を綴る。闇の底で光を待つ場所としての孤独を、みことばの物語から見つめ直す文章。
Yoriko Sakasegawa
2月14日読了時間: 2分


闇の底で、ゴーギャンは光をみたのか
絶望の闇に刻まれた問いが、聖書の物語に触れるとき光へと変わる。人はどこから来てどこへ行くのか——沈黙の底に息づく光を見つめる文章。
Yoriko Sakasegawa
2月12日読了時間: 2分


パウロとパスカル
パウロとパスカル パウロとパスカル。時代も背景もまったく違う二人なのに、どこか同じ光の筋を感じる。 それは、人間を「見る者」としてではなく、「巻き込まれる者」として描いている点だと思う。 人は、自分の目で世界を判断しているように見える。 けれど本当は、もっと深いところで“何かに巻き込まれて”生きている。 パウロはそれを「キリストに捕らえられた」と言い、 パスカルは「人間は信仰するように造られている」と言った。 信仰とは、意志の選択ではなく、存在の構造。 人は信じずには生きられない。 何を信じるかを選んでいるように見えて、 実は“信じるという動きそのもの”に巻き込まれている。 パウロは、ダマスコ途上で“光に倒された”。 あれは、見たのではなく、巻き込まれた出来事。 パスカルの「火の体験」も同じ。 理性の頂点にいた彼が、突然、言葉にならない光に包まれた。 二人とも、光を“観察”したのではない。 光の側が、彼らを捕らえた。 人は、信仰を持つ被造物。 自分の力で神を見つけるのではなく、 神の側から来る光に巻き込まれて初めて、 世界が開き、心が開き、人生が
Yoriko Sakasegawa
2月11日読了時間: 2分


「光あれ」耳のある者は聞きなさい。
冬の朝食 闇のただ中に、光が呼び出されます。 「光あれ」(創世記1:3) 光源ではありません。見ることのできない霊の光です。 闇は光に打ち勝てず、その瞬間から、世界は動き始めます。 ダニエルに示された幻は、 終わりの時まで封じられ、息をひそめて、 時が満ちる日を誰の手にも触れられずに保たれています。 終わりの日、 小羊が封印を解かれるとき、 巻物は音もなく開かれ、 闇を駆逐する初めの光が輝き始めます。 ヨハネに示されたキリストの黙示の光は、 エペソ書では「神のご計画、みむね、みこころ、目的 」と言い換えられ、 創世記1章3節の「光」を表現していると気づく人は多くないでしょう。 霊の光はキリストに姿を変え、人の霊の中で静かに寄り添います。 いのちの息を吹き込まれた人が生きる者となる瞬間です。 奥義の封印が解かれるみことばの水音に耳が開く時、 羊は泉のほとりへ近寄ってきます。 探し求めていた 「いのち」の響きと出会うからです。 ここは、みことばの水が湧き出す泉です。 泉は自分からは語らず、押しつけず、 ただ湧き出る水を湛え
Yoriko Sakasegawa
1月25日読了時間: 2分
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