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もうひとつの苦しみ

苦しみには、二つの種類があるように思う。

ひとつは、この世で誰もが経験する苦しみ。

環境や出来事、人との関わりの中で生まれる痛み。

生きていれば避けられない、外側からやってくる重さ。

もうひとつは、もっと静かで、もっと内側に触れてくる苦しみ。

それは、自分の心がみこころから離れてしまったときに、

ふと胸の奥に生まれる、言葉にならない痛み。

何かが違う、と知らせてくるような、

小さなズレのような、でも深いところに響く痛み。

不思議なのは、この二つ目の苦しみは、

自分が直接何かをしたわけでもないのに、

ふとした瞬間に訪れることがあるということ。

まるで、自分の内側を通り抜けていくように、

静かに、でも確かに触れてくる。

それは、キリストが味わわれた苦しみの“余韻”のようなものかもしれない。

みこころから離れる痛みを、最初に、そして完全に味わわれた方。

だからこそ、その痛みは今も世界に流れていて、

ときどき、私たちの心にも触れてくるのだと思う。

この世の苦しみとは違う苦しみがある。

それは、自分が直接関わっていなくても、

なぜか味わうことができる苦しみ。

その痛みに気づくとき、

どこかで、キリストの心に触れているのかもしれない。

夕暮れのテーブルに、三つのコーヒーカップと四つの小さなパンが並ぶ静かな情景。
ふと心を照らす、もうひとつの苦しみ。

 
 
 

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