top of page

2026年03月


漱石と太宰が描いた「喪失」の正体とは何か
日本のトップノベルは、いまだに『人間失格』と『こころ』が二分している。欧米では『ロード・オブ・ザ・リング』や『ハックルベリー・フィン』、『ハリー・ポッター』など、夢や冒険、希望を描く物語が読み継がれているのに、なぜ日本では“人の本質”を問う小説が圧倒的に支持され続けるのか。
Yoriko Sakasegawa
5 日前読了時間: 2分


神学ではなく、交わり
神学ではなく、交わり 聖書が語る“いのち”は、 説明でも、理屈でも、思想でもない。 それは、 神との関わりという実体。 キリストの霊との交わりという現実。 説明ではなく、実体 説明は頭に触れる。 実体はいのちに触れる。 聖書が置いているのは、 意味ではなく、 存在そのもの。 理屈ではなく、いのち 理屈は積み上がる。 いのちは吹き込まれる。 触れたとき、 深いところで“そうだ”とわかる。 それが真理。 思想ではなく、関わり 思想は人が作る。 関わりはいのちが流れる。 聖書が開いているのは、 考えではなく、 神とのつながり。 神学ではなく、交わり 神学は外側から眺める。 交わりはいのちが内側に入る。 語る体系ではなく、 与えられる実体。 聖書が示しているのは、 キリストの霊との交わりという、静かな現実。 **いのちは、説明では届かない。 交わりでしか届かない。** 言葉を理解するのではなく、 いのちが吹き込まれる。 腑に落ちるとき、 いのちが入る。 それが、 聖書の語る“いのち”。 静けさの中に、いのちの気配
Yoriko Sakasegawa
3月11日読了時間: 1分


ひかりといういのちが開く奥義
原語の息に触れていると、
“ひかりといういのち”が
静かにみことばを開いていく瞬間があります。
奥義は、人の理解ではなく、
与えられるもの。
聖霊がそっと示してくださる
御国の物語がそこに流れています。
Yoriko Sakasegawa
3月9日読了時間: 2分


インターネットという大海原のなかで
情報が絶えることなく押し寄せて、 真実と偽りの境目が見えにくくなるような混雑の中で・・ いつの間にか、思いも速度を上げながら、 行き先知らずの道を歩き続けてしまう。 どこで立ち止まれば良いのかもわからなくなるほど、 世の中は、雑音で満ちている。 インターネットという大海原に、 微かないのちの気配が感じられる 聞く耳が、そばだつような小さな小さな揺らぎ 鼓動のように静かに静かに鳴り響く 涸れることなく湧き続ける泉のように 心地良いそよ風のように通り過ぎていく 情報の奔流の中で、ふと立ち止まる 触れた者だけが気づく いのちの気配 体温にも似た温もりの中で そっと 足を延ばす それまでの飢え渇きを癒すように ゆっくりと、思う存分 泉の水を飲む その時、静けさは、ご臨在の気配に満たされる。 大海原の中で生まれた、最も小さくて甘い水飲み場 静かな朝に、耳がそばだつ 聖なるいのちの揺らぎが、このサイトを支えている。
Yoriko Sakasegawa
3月5日読了時間: 1分


キリストを探せ
聖書は、倫理や道徳の教科書ではなく、人生の取扱説明書でもない。 そこに隠されているのは、ただ一つ——御子の姿。 旧約のページのあちこちに、御子はそっと身を潜めている。 まるで「ウォーリーを探せ」のように、しかしもっと深く、もっと静かに、もっと美しく。 創世記の光、荒野のマナ、岩から流れる水、詩篇の御子、イザヤのしもべ。 どれも、御子が「ここだよ」と小さく手を振っている影。 聖書とは、御子がかくれんぼしている書物なのだ。 そして、70人訳は、その影がいちばん鮮明に浮かび上がる“宝の地図”。 新約の著者たちが使った旧約。 パウロが奥義を見た旧約。 ヨハネが光を見た旧約。 だから、70人訳を通すと、御子の姿が自然に輪郭を帯びてくる。 聖書を読むとは、宝探しの旅に出ること。 読む人は、トレジャーハンター。 今日はどこに御子が隠れているのだろう。 どんな影として現れるのだろう。 その期待と遊び心こそ、聖書を読む者の特権。 聖書は、いのちというかけがえのない光と出会う宴会場。 光のそばで、いのちがそっと息をしている場所 御子を見つけるたびに、心が躍り、胸が熱
Yoriko Sakasegawa
3月4日読了時間: 1分


シンギュラリティ
AIが人間を支配するという物語は、主権が人間にあるという前提から生まれている。けれど、聖書の世界ではその問いは最初から成立しない。主権は、人間にも、サタンにも、AIにもなく、ただひとりの方に属しているからだ。
Yoriko Sakasegawa
3月3日読了時間: 2分


神の痛みの神学
神学者・北森嘉蔵の『神の痛みの神学』という本がある。 題名のとおり、神が痛むという一点を 静かに、深く見つめた本だ。 北森が語ろうとしたのは、 人間の感情を神に重ねることではない。 いのちを与えた方が、 そのいのちとの断絶を ご自身の内側で引き受けるという痛み。 悲しみでも、怒りでも、嘆きでもない。 断絶そのものを抱き込む痛み。 人を責めるための痛みではなく、 人を抱き戻すための痛み。 十字架は、 罰の象徴ではなく、 断絶を越えるために 神がご自身の中で選ばれた道。 北森が見ていたのは、 神が痛むということが、 愛の感情ではなく、 いのちの共有そのものの証 だということ。 神は痛みを避ける方ではなく、 痛みを通して いのちを戻す方。 この視座に触れると、 “神が痛む”という言葉が 静かに深く沈んでいく。 静かな朝に、心がひらく。
Yoriko Sakasegawa
3月2日読了時間: 1分


モーパッサン『首飾り』が映す影
モーパッサン『首飾り』に映る見栄と虚栄の影を、光の側から見つめ直す。闇を知るのは、すでに光に取り込まれた者のしるし。
Yoriko Sakasegawa
3月1日読了時間: 2分
bottom of page