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2026年02月


「モーパッサンの鏡に映るもの」
「モーパッサン『脂肪の塊』を読み返すと、胸の奥にひやりとした風が通り抜ける。
笑ってしまうほど滑稽で、どこかで見覚えのある影が、静かにこちらを見つめてくる。
人は追い詰められたとき、どんな顔を見せるのだろう──そんな問いが、今日も私の前に置かれている。」
Yoriko Sakasegawa
2月28日読了時間: 1分


もうひとつの苦しみ
苦しみには、二つの種類があるように思う。 ひとつは、この世で誰もが経験する苦しみ。 環境や出来事、人との関わりの中で生まれる痛み。 生きていれば避けられない、外側からやってくる重さ。 もうひとつは、もっと静かで、もっと内側に触れてくる苦しみ。 それは、自分の心がみこころから離れてしまったときに、 ふと胸の奥に生まれる、言葉にならない痛み。 何かが違う、と知らせてくるような、 小さなズレのような、でも深いところに響く痛み。 不思議なのは、この二つ目の苦しみは、 自分が直接何かをしたわけでもないのに、 ふとした瞬間に訪れることがあるということ。 まるで、自分の内側を通り抜けていくように、 静かに、でも確かに触れてくる。 それは、キリストが味わわれた苦しみの“余韻”のようなものかもしれない。 みこころから離れる痛みを、最初に、そして完全に味わわれた方。 だからこそ、その痛みは今も世界に流れていて、 ときどき、私たちの心にも触れてくるのだと思う。 この世の苦しみとは違う苦しみがある。 それは、自分が直接関わっていなくても、 なぜか味わうことができる苦しみ
Yoriko Sakasegawa
2月26日読了時間: 2分




「私だけならいいのだけど・・」
孤独は心の弱さではなく、神との断絶が生む沈黙だと気づいた体験を綴る。闇の底で光を待つ場所としての孤独を、みことばの物語から見つめ直す文章。
Yoriko Sakasegawa
2月14日読了時間: 2分


闇の底で、ゴーギャンは光をみたのか
絶望の闇に刻まれた問いが、聖書の物語に触れるとき光へと変わる。人はどこから来てどこへ行くのか——沈黙の底に息づく光を見つめる文章。
Yoriko Sakasegawa
2月12日読了時間: 2分


パウロとパスカル
パウロとパスカル パウロとパスカル。時代も背景もまったく違う二人なのに、どこか同じ光の筋を感じる。 それは、人間を「見る者」としてではなく、「巻き込まれる者」として描いている点だと思う。 人は、自分の目で世界を判断しているように見える。 けれど本当は、もっと深いところで“何かに巻き込まれて”生きている。 パウロはそれを「キリストに捕らえられた」と言い、 パスカルは「人間は信仰するように造られている」と言った。 信仰とは、意志の選択ではなく、存在の構造。 人は信じずには生きられない。 何を信じるかを選んでいるように見えて、 実は“信じるという動きそのもの”に巻き込まれている。 パウロは、ダマスコ途上で“光に倒された”。 あれは、見たのではなく、巻き込まれた出来事。 パスカルの「火の体験」も同じ。 理性の頂点にいた彼が、突然、言葉にならない光に包まれた。 二人とも、光を“観察”したのではない。 光の側が、彼らを捕らえた。 人は、信仰を持つ被造物。 自分の力で神を見つけるのではなく、 神の側から来る光に巻き込まれて初めて、 世界が開き、心が開き、人生が
Yoriko Sakasegawa
2月11日読了時間: 2分
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