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私は父にとって子であった(箴言4章)
כִּי־בֵן הָיִיתִי לְאָבִי 「私は父にとって子であった。箴言4:3前半」 語っているのは知恵の王として知られるソロモン。 彼は、まず知恵者である前に、子として立っている。 箴言3章では、 「わが子よ、私の教えを忘れるな。」 と語られていた。 忘れるな。 心に保て。 その呼びかけの中で、箴言4章に入れば、 今度は語っている父自身の姿が見えてくる。 「私は父にとって子であった。」 ソロモンもまた、語りを受ける者であった。 父ダビデから語られ、 教えられ、 聞く者として立っていた。 だから今、わが子に向かって語るのであろう。 「聞け。」 「忘れるな。」 「心に保て。」 箴言1章から続く呼びかけは、 知恵者が上から語る言葉ではなく、 かつて自分自身が受け取った父からの語りを、 今度はわが子へ渡している姿。 父から子へ。 子からまた次の子へ。 語りは受け渡されていく。 見えてくるのは、 知恵を持つ人の姿というより、 語りを受け取る人の姿。 ダビデも受ける者。 ソロモンも受ける者。 そして今、 わが子も受ける者として呼びかけられている
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6月3日読了時間: 2分


わが子よ、私の教えを忘れるな。(箴言3章)
「わが子よ、私の教えを忘れるな。 心に私の命令を保つようにせよ。」(箴言3:1) 箴言3章も、 「 わが子よ 」 という呼びかけから始まる。 そして、 「私の教えを忘れるな。」 「心に私の命令を保つようにせよ。」 と語られる。 学べ、 理解せよ、 よりもまず、 「忘れるな」 と父は語られる。 そうすれば、 平安といのちと祝福の中に置かれるからだと。 「 私の教え 」とは何なのだろう。 「 私の命令 」とは何なのだろう。 答えを急がずに、 先ず、 「 わが子よ 」 という呼びかけの前で佇んでみる。 答えを急がずに。まず、「わが子よ」という呼びかけに佇んでみる。
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6月2日読了時間: 1分


箴言1章~7章の風景
箴言3章でふと気づく。 1章にも「わが子よ」 2章にも「わが子よ」 3章にも「わが子よ」 4章にも、5章、6章、7章にも、 「わが子よ」という呼びかけから始まる。 箴言全体に「わが子よ」と言うことばはあるものの、 冒頭で呼びかけるのが1章~7章。 眺めているうちに、一つの風景が見えてくる。 先ず、父が呼びかけて、語る。 また語る。 さらに語る。 何度も語る。 「わが子よ」 「聞け」 「耳を傾けよ」 「忘れるな」 「心に保て」 父の声が繰り返し響き渡る。 それなのに、 わが子が何と答えたのか。 どのように応答したのか。 それは、ほとんど語られていない。 ただ、父の呼びかけと語りが続いていく。 気が付くと、わが子の受け答えを見るのではなく、 父の呼びかけと語りを聞く者として立たされている。 箴言1章~7章は、 父がわが子に語り続ける風景なのかもしれない。 その語りは、わが子の平安のため、 わが子のいのちのため、 わが子の喜びのため、 父の呼びかけの前に、 終日、佇んでみた。 「わが子よ」 明日から3章に入ってみよう。 父の呼びかけの前で。 父は語る。
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6月1日読了時間: 1分


わが子よ(箴言2章)
箴言2章冒頭は、 「わが子よ」 知恵でもなく、 悟りでもなく、 説明でもなく、 呼びかけで始まる。 知識を受け取る前に語られる呼びかけ。 ここから、 耳を傾けること、 心を傾けること、 呼び求めること、 捜しもとめることが語られていく。 それは、 語られることばを 受け取るような姿勢にも見える。 『 そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、 神の知識を見出すようになる。 』(箴言2:5) 知識を語られる前に わが子よ と、呼びかけから始まる。 その呼びかけに、耳を傾けているだろうか。 わが子よ
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5月30日読了時間: 1分


主を恐れることは知識のはじめである(箴言1章)
今日から箴言を読み始める。 冒頭、 「主を恐れることは知識のはじめである」(箴言1:7) が置かれる。 箴言は知恵の書と呼ばれている。 だから、知識や知恵についての話が始まるのかと思いきや、 最初に語られるのは、 「主を恐れること」 知識の話の前に、立つ場所が語られる。 知識を持つ前に、 立ち位置を確認させられるよう。 誰の声に耳を傾けるのか。 これが箴言の始まりなのか。 ヨブも友人たちも多くを語った。 問いがあり、 考えぬき、 議論を続けた。 しかし、最後に残ったのは、 人の知恵の大きさではなく、 主が語られるという事実。 「主を恐れることは知識のはじめである」 箴言は、知識のはじめ、出発点を語る。 主を恐れることが、知識のはじめだと。 聖書から知識を得る前に 理解を求める前に 箴言は、立つ場所を問う。 今、この時、 語られる主の前に立っているだろうか。 箴言は、立つ場所を問う。
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5月29日読了時間: 1分


ヨブ記は、人を説明から神の語りの前へ導く書。
ヨブ記 総集編 ヨブは問い続けた。 なぜ苦しむのか。 なぜ神は沈黙されるのか。 なぜ正しい者が苦しむのか。 友人たちは説明した。 罪。 因果応報。 神の正しさ。 それぞれが、 神について語った。 ヨブもまた語った。 自分の正しさ。 苦しみ。 理解できない現実。 沈黙する神。 エリフは語った。 神はすでに語っておられる、と。 しかし最後に、 主ご自身が語られる。 嵐の中から。 主は、 苦しみの理由を説明されなかった。 世界の構造を整理されなかった。 因果関係を解き明かされなかった。 その代わりに、 問い返される。 「わたしが地の基を定めたとき、 あなたはどこにいたのか。」 (ヨブ記38章4節) 海。 光。 暗闇。 星。 獣。 レビヤタン。 主は、 世界を造られた方として語られる。 人は、 理解しようとする。 説明しようとする。 整理しようとする。 しかし主は、 まず人を御前へ立たせられる。 ヨブは、 すべてを理解したわけではなかった。 しかし、 主の前に立つ者となった。 「私はあなたのことを、 耳
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5月28日読了時間: 2分


聞いていたつもりのとき、あなたはどこにいるのか
ヨブ記42章 ついにヨブが応答する。 「私はあなたのことを、 耳で聞いていました。 しかし今、 この目であなたを見ました。」 ヨブは長い間、 問い続けてきた。 苦しみの理由を求めた。 説明を求めた。 自分の正しさを語った。 友人たちも語り続けた。 正しさ。 因果応報。 神についての説明。 しかし最後に残ったのは、 説明ではなかった。 主ご自身だった。 ヨブは言う。 「耳で聞いていた。」 知識として。 理解として。 説明として。 しかし今、 主の前に立たされる。 ここで、 ヨブ記全体が閉じられる。 苦しみの理由は、 最後まで詳しく説明されない。 しかしヨブは、 主の前に立つ者となった。 人は、 神について聞くことができる。 説明を学ぶことができる。 理解を深めることもできる。 しかし、 主の前に立つことは、 別の出来事。 聞いていたつもりのとき、あなたはどこにいるのか。 知識の中にいるのか。 説明の中にいるのか。 それとも、 なお分からないまま、 主の前に立っているのか。 ヨブは、 すべてを理解したわけではない。 しかし、 主の前に立った。 「私は
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5月27日読了時間: 2分


あなたはなお支配しようとするのか
ヨブ記41章 主はレビヤタンについて語られる。 巨大な海の獣。 人には捕らえられない存在。 力に満ち、 恐れを抱かせるもの。 主は問われる。 「あなたは釣り針でレビヤタンを引き出せるか。」 「これを従わせることができるか。」 人は、 理解したい。 支配したい。 管理したい。 自分の手の中に収めたい。 しかし主は、 人には制御できない存在を示される。 レビヤタンは、 人に従わない。 人の力では抑えられない。 恐ろしく、 近づきがたい。 それでもなお、 その存在もまた、 神の御手の中にある。 人は、 自分で扱えるものの中で 安心しようとする。 説明できるものだけを 受け入れようとする。 しかし主は、 「あなたが支配できない世界も わたしの支配の中にある。」 と示される。 あなたはなお支配しようとするのか。 自分で握ろうとしているのか。 理解できる範囲だけで 世界を測ろうとしているのか。 それとも、 自分では制御できない世界の中でも、 なお神を見上げているのか。 主は、 レビヤタンを通して語られた。 人には制御できないものがある。 人には理解しきれない
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5月26日読了時間: 2分


あなたはなお神に言い返そうとするのか
ヨブ記40章 主はヨブに語られる。 「全能者と言い争う者は、神を正そうとするのか。」 ヨブは初めて口を閉ざす。 「私は小さい者です。 何とお答えできるでしょう。」 ヨブは苦しみの中で問い続けてきた。 自分の正しさを語った。 説明を求めた。 神に答えを求めた。 しかし今、主の語りの前で、ヨブは立ち止まる。 主はさらに問われる。 「あなたは、わたしを不義とするのか。 自分を義とするために、わたしを罪ある者とするのか。」 ヨブはまだ苦しみの理由を知らない。 説明は与えられていない。 しかし主の前で、 自分の小ささを知り始めている。 あなたはなお神に言い返そうとするのか。 自分の正しさを握りしめているのか。 それとも、答えを持たないまま、 なお神の前に立っているのか。 主は、ヨブを押しつぶすためではなく、 御前に立たせるために語られた。 ヨブは、説明を受ける前に、 自分の小ささを知り始めた。 「私は小さい者です。何とお答えできるでしょう。」 私は小さい者です。何とお答えできるでしょう。
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5月25日読了時間: 1分


見えない世界を見ようとするとき、あなたはどこにいるのか
ヨブ記39章 主はなお語られる。 しかし、 苦しみの理由は説明されない。 その代わりに、 主は生き物たちについて語られる。 山やぎ。 雌鹿。 野ろば。 野牛。 だちょう。 馬。 鷲。 それぞれが、 人の支配を超えて生きている。 人の理解を超えたところで、 命は動いている。 主は問われる。 「あなたは知っているのか。」 「あなたは見ることができるのか。」 「あなたはこれを支配できるのか。」 人は、 世界を理解しようとする。 説明しようとする。 管理しようとする。 しかし主は、 人の手に収まらない命の世界を示される。 野ろばは、 人に仕えない。 野牛は、 人のために働こうとしない。 だちょうは、 愚かに見える。 しかし、 なお命を与えられている。 人は、 役に立つかどうかで 物事を測ろうとする。 理解できるかどうかで 価値を決めようとする。 しかし主は、 人の理解の外にも、 なお世界が広がっていることを示される。 見えない世界を見ようとするとき、あなたはどこにいるのか。 理解できるものだけを見ているのか。 自分の尺度で測っているのか。 それとも、 理
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5月24日読了時間: 2分
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