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パウロとパスカル
パウロとパスカル パウロとパスカル。時代も背景もまったく違う二人なのに、どこか同じ光の筋を感じる。 それは、人間を「見る者」としてではなく、「巻き込まれる者」として描いている点だと思う。 人は、自分の目で世界を判断しているように見える。 けれど本当は、もっと深いところで“何かに巻き込まれて”生きている。 パウロはそれを「キリストに捕らえられた」と言い、 パスカルは「人間は信仰するように造られている」と言った。 信仰とは、意志の選択ではなく、存在の構造。 人は信じずには生きられない。 何を信じるかを選んでいるように見えて、 実は“信じるという動きそのもの”に巻き込まれている。 パウロは、ダマスコ途上で“光に倒された”。 あれは、見たのではなく、巻き込まれた出来事。 パスカルの「火の体験」も同じ。 理性の頂点にいた彼が、突然、言葉にならない光に包まれた。 二人とも、光を“観察”したのではない。 光の側が、彼らを捕らえた。 人は、信仰を持つ被造物。 自分の力で神を見つけるのではなく、 神の側から来る光に巻き込まれて初めて、 世界が開き、心が開き、人生が
より子 逆瀬川
2月11日読了時間: 2分


「光あれ」耳のある者は聞きなさい。
冬の朝食 闇のただ中に、光が呼び出されます。 「光あれ」(創世記1:3) 光源ではありません。見ることのできない霊の光です。 闇は光に打ち勝てず、その瞬間から、世界は動き始めます。 ダニエルに示された幻は、 終わりの時まで封じられ、息をひそめて、 時が満ちる日を誰の手にも触れられずに保たれています。 終わりの日、 小羊が封印を解かれるとき、 巻物は音もなく開かれ、 闇を駆逐する初めの光が輝き始めます。 ヨハネに示されたキリストの黙示の光は、 エペソ書では「神のご計画、みむね、みこころ、目的 」と言い換えられ、 創世記1章3節の「光」を表現していると気づく人は多くないでしょう。 霊の光はキリストに姿を変え、人の霊の中で静かに寄り添います。 いのちの息を吹き込まれた人が生きる者となる瞬間です。 奥義の封印が解かれるみことばの水音に耳が開く時、 羊は泉のほとりへ近寄ってきます。 探し求めていた 「いのち」の響きと出会うからです。 ここは、みことばの水が湧き出す泉です。 泉は自分からは語らず、押しつけず、 ただ湧き出る水を湛え
より子 逆瀬川
1月25日読了時間: 2分
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