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仕切り直しの雅歌

7 日前
読了時間: 2分

雅歌が、ずっとつかめなかった。


原文を調べ、人称を追いかけ、主語を追いかけてきた。


誰が誰に語っているのか。


どこで声が入れ替わるのか。


手は動かしていた。それでも、何が書かれているのかがわからなかった。


読んでくださる方からも、わからない、という声が届いていた。


でも、正直に言えば、いちばんわからなかったのは私自身。


このまま、悩ましい書として終わるのだろうか。


そう思っていた。

 



仮庵の祭りが終わり、朝のライブが日常に戻った。


創世記3章、木曜日はレビ記、金曜日はダニエル書。


そして、ライブのあとの輪読では、いま、マタイの福音書を読んでいる。



その22章に来たとき、ふと思った。


「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、


あなたの神、主を愛しなさい。」


     マタイの福音書22章37節(新改訳2017)



マタイの福音書は、王なるキリストを語る書でありながら、

読む者の心が、どこを見ているのかを問うてくる。


何を頼りにしているのか。

お金なのか。

社会的地位なのか。

あなたを支えているもの、

あなたの心を支えているものは、何か。


律法の専門家も、金持ちの青年も、そして弟子たちも、

自分の心の王座に何が座っているのかを、あぶり出されていくように。


神は語る。

イエスは語る。

何を語るのか。


あなたの心を支えているものは、


何か。


初臨の出来事を通して、

読み手にそう語りかけているように見えてくる。



この二年ほど、

神が語り、人が応答する記録として、みことばと向き合ってきた。

そのなかで、身につけてきた神学の概念の枠組みを、ひとつずつ手放してきた。

自分の中の固定した思い込みも、手放してきた。


ただ素直に、みことばの前に佇む。

そうしているうちに、ここに至る。

立つ場所に、そのつど気づかされる日常。

 


そして、

雅歌をブログの題材にしてからは、毎朝、困りはてていたのだけれど、

今さらながら思う。


神は愛を語る。

人は、その愛に応答する。

雅歌は、その応答の記録なのかもしれない、と。



ようやく、雅歌の向き合い方が見えてきた。

これまで追いかけてきた人称も、主語も、捨てるものではない。


誰が語り、誰が応えているのか。

その動きを

、そのまま、

神の愛の応答として味わえそうだ。



さあ、仕切り直し。

つかみどころがなくて悩ましい雅歌の森を歩いてみよう。


最初に語り出すのは、誰なのか。

最後に語るのは、誰なのか。

その声は、誰に向かっているのか。


森の中、落ち葉と苔の地面に、白い斑点のある鹿が一頭座り、横を向いて静かにたたずんでいる。
雅歌の森へ

 
 
 

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