

逆瀬川 より子
Yoriko Sakasegawa
愛知県西尾市出身
1962年2月16日生まれ
愛知県立刈谷高等学校卒
1994年5月1日 受洗
2021年9月30日~2026年8月6日
空知太栄光キリスト教会 主任牧師 銘形秀則先生主催
「アシュレークラス」に参加
2022年12月8日
毎朝8時~8時30分 アシュレークラスの学びを味わう
「ハースートクラス」を開始
2025年12月25日 サイト「いのちの朝ごはん」開設
一歳の長男を抱っこして、アパートの玄関先であやしていた時、見知らぬ人が訪ねてきた。
「聖書は、神の言葉。神はおられる。」
無神論者を豪語していたので、少し憤りながら言い返した。
神様なんているわけない。すべては科学で証明できる。
努力こそ最大の力。
宗教は、人が創り上げた崇高な哲学であって、神ではない、と。
するとその人は、優しく微笑んで言った。
「それなら、聖書をご自身で読んで、確かめてみたら?」
聖書との出会いは、何気ない日常から始まった。
神の言葉とは、なんぞや。置かれていった無料の聖書を、興味本位で開いてみた。
分厚い本の割には読みやすい。そして、なんとしたことか。
読めば読むほど、後ろから頭を殴られるような衝撃が走る。
目から鱗が落ちるとは、この事だと驚かされる。
これは……真理だ。忖度なく本質を貫いている。
と、同時に、痛すぎた。
刃物が容赦なく飛んでくる。読むたびに、切り刻まれる。痛いくせに、読まずにいられない。
子育ての合間をみては、貪るように読み耽った。
どこを突いても隙がない。信頼に足ることばの数々。
その上、そこはかとなく漂うこの品格と、えも言われぬ優しさは、何処から来るのか。
人が紡ぎ出したようには、到底思えない。怖いもの知らずが、初めて畏怖の念を感じた。
よし!このことばをもっと知れば、今度こそ必ず幸せになれる。
だから、溢れんばかりの期待感を片手に、洗礼を受けた。
無言の夫を残し、三人の幼子を連れて、主日礼拝に通い始めた。
子どもの幸せ、家族の幸せ。ここですべてを得られるはずだから、と。
信じて疑わなかった。やっと夢が叶うと。心から幸せになれる、と。
メッセージ、教会行事、聖書研究会、お祈り会。必ず何かがあるはず、と。
ワクワクしながら、万障繰り合わせて参加した。
にもかかわらず、行けば行くほど、なぜかしっくりこない。
涙を流しながら賛美する人々。会場の盛り上がり。熱気あふれる空気の中で、
一人だけしらけていく。なんて、ろくでなしなのだろう。何も感じない。
はち切れんばかりの風船が、少しずつ少しずつしぼんでいくように、礼拝が儀礼になり始めていく。
ひょっとしたら、教会を変えればいいのかもしれない。
タウンページで片っ端から教会に電話をした。
ただ、自分の中の訳の分からない苛立ちに、答えが欲しかっただけなのだけど。
行きついた先は、教会難民だった。
同時に、聖書も全く読まなくなってしまった。
子どもの時からの夢だった「幸せになりたい」という願望は、ここでも叶わなかった。
そもそも、ものごとが上手くいかない諸悪の根源は、この貧しさに違いない。
きっと、お金が幸せを運んでくれるはず。だから、一生懸命働いた。
もともと家業を少し手伝って結婚したこともあって、特別なキャリアがあるわけではない。
快く受け入れてもらえた新聞配達など、アルバイト生活が始まる。
今だから分かる。
最も大切な子どもたちとの触れ合いを、一番に犠牲にしていたこと。
お金さえあれば何とかなるからと、無知をひけらかすように、掛け持ちアルバイトに奔走した。
猪突猛進。心身の疲労感も、なにくそと。それなのに、
頑張れば頑張るほど、どういうわけか家庭はしだいに崩れ始める。
あんなにお金のために動き回っているにもかかわらず、
愚かな者の微々たる生活費は、いとも簡単に奪われる。
疑うことを知らなかった者への、しっぺ返し。上手い話の一番のカモ。
追われるような日々を過ごすうちに、家族はバラバラになり、お金も信用も、すべて失っていた。
ただ一つ。
孤独という闇だけは、片時も離れず、こびり付いたまま居続ける。
定期的に押し寄せる、責め苦のようなひとりぼっちに弄ばれる夜。
その日はどうしても眠ることができず、一晩中泣きはらした未明に、一本のメールを入れた。
「裸で墓場をのたうち回る、ゲラサの男のようなメンタルです。」
すると、二時間ほどで、期待もしていなかった返信がきた。
「二年前にもメールをくれましたね。面白いメンタルですね。」
先生とのご縁の始まりは、あまりにも素っ気ない。その日、先生のお教室に参加をした。
先生は、最初のお教室で、こう言われた。
「皆様に聖書の読み方をお教えしましょう。創世記一章から、聖書全巻をご案内いたしましょう。」
闇から、希望の光が差してくるようだった。
ここだったんだ。
この時から、聖書の読み方の手ほどきを受け始めた。
創世記一章のご講義の傍ら、ヘブル語の読み書きを学ぶテキストの添削。
ヘブル語動詞の大切さ。聖書の原文の大切さ。J-ばいぶる、ヘブル語大辞典との出会い。
先生ご推薦書籍との出会い。聖書は聖書で論じること。二根字のヘブルミドラーシュでの聖なる遊び。
ベレアの人たちのように、聞いたことを、自分でも本文を確かめる大切さ。
何よりも、聖書で調べてから答えられる先生のお姿。
そして、いのちの根源となるみことばを、森のいのちに例えられたお話。
小さなキノコは菌糸の花。地中には夥しい根が張って、森を支えている。
花も草も木も、どれ一つ欠けても、森はバランスを崩してしまう。
いのちは、かかわり合いの中で循環するもの。受け取ったみことばも、流れが滞れば失われる。
いのちの息吹を味わうように、みことばの読み直しが始まった。
六十年余り。
表向きは、さも問題のないように振る舞う日常。しかしながら、
物心ついた時から、心の奥底には、どうしても解決できない孤独という闇が巣くい続ける。
ほくそ笑むように、あざ笑うように、絶え間なく、すぐ隣で脅かし続けていく。
混沌とした裸。何も仕上がらない器用貧乏。寂しがり屋の甘えん坊。
されど、気の強さだけは天下一品。それが弱虫を覆い隠す鎧となる。
弱音を吐いたら総崩れすることが分かりきっているから、虚勢を目いっぱい張り続けてきた。
本当は、人が怖くて怖くて、仕方がないのに。
ある日、愚かで哀れな羊は、羊飼いに拾われた。
羊飼いは、ことばなる神、みことばの中から語りかける、イエスのことば。
羊飼いは、この小さな小さな羊の涙ぐましい虚勢を、まず止めさせる。
そして、気の強さを、本文へのこだわりと粘り強さに変えていった。
あんなに脅かされた、ひとりぼっちの夜に、みことばの微かなささやきが届き始めると、
忌々しい孤独とも、賢くつきあえるようになってくる。
ひとりの時間が怖くない。むしろ、静かに佇む大切なひとときとして、楽しんでさえいる。
極度の人見知りが、オンラインサロンを始める。それも毎朝欠かすことなく続けていく。
ふと、不安と寂しさだらけの日常の中で、ほのかな光の輝きと出会っていることに驚かされる。
みことばが、いのちのことばとなるとき、羊飼いは、迷子の羊の心を整えながら導き始めていた。
『あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。』
(ヨハネの福音書8章31節 新改訳2017)
羊は、安心してついて行く。
心の王座に、みことばという羊飼いを迎えながら。
いつしか、羊は、少しずつ、羊飼いのことばを書き記す鉛筆になり始める。
日常の中の非日常を観察する、記録係として。
今、この文章をしたためながら、
ほんの少し前までの、小さく哀れな羊を振り返り、懐かしく思う。
一生懸命に、愚かさを追いかけ続けていた羊。
情けなさすぎて、いじらしさが半端ない。無防備すぎてかわいらしいんだよね。
ようやく居るべき場所で、するべきことが見つかったという奥深さと安堵を受け止めながら。
ここまでの、羊が必要とした旅の年月を、しみじみ思う。
みことばに佇み、いのちの循環を味わうひとときの中で。
『見よ。私が良いと見たこと、好ましいことは、こうだ。
神がその人に与えたいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦にあって、
良き物を楽しみ、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。
実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、
各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。
こういう人は、自分の生涯のことをあれこれ思い返さない。
神が彼の心を喜びで満たされるからだ。』
(伝道者の書5章18〜20節 新改訳2017)
長くなりました。最後に。
アシュレークラスというお教室への参加から始まった、想定外の流れの中で、
原文で聖書を読むことの大切さと、みことばのいのちの循環を、ご指導くださった
空知太栄光キリスト教会の銘形先生へ。
そのご講義の時を共に過ごし、本文を味わい合った皆様へ。
そして、二〇二二年十二月八日、
先生が名付けてくださったハースートクラス(主を信頼する者のクラス)の立ち上げから、
毎朝のライブを支え続けてくださる、メンバーの皆様へ。
また、何よりも、デジタル音痴の姉のためにサイトの土台を立ち上げてくれた、かけがえのない弟へ。
この唯一無二ともいえる出会いの一つ一つが、みことばの森を散策するサイトとなりました。
心より、心より、感謝申し上げます。
ご来訪者様へ、
この度は、サイト「いのちの朝ごはん」へお立ち寄りくださり、ありがとうございます。