仕切り直しの雅歌
최종 수정일: 5일 전
雅歌が、ずっとつかめなかった。
原文を調べ、人称を追いかけ、主語を追いかけてきた。
誰が誰に語っているのか。
どこで声が入れ替わるのか。
手は動かしていた。それでも、何が書かれているのかがわからなかった。
読んでくださる方からも、わからない、という声が届いていた。
でも、正直に言えば、いちばんわからなかったのは、自分自身。
このまま、悩ましい書として終わるのだろうか。
そう思っていた。
仮庵の祭りが終わり、朝のライブが日常に戻った。
創世記3章、木曜日はレビ記、金曜日はダニエル書。
そして、ライブのあとの輪読では、いま、マタイの福音書を読んでいる。
その22章に来たとき、ふと思った。
「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、
あなたの神、主を愛しなさい。」
マタイの福音書22章37節(新改訳2017)
マタイの福音書は、王なるキリストを語る書でありながら、
読む者の心が、どこを見ているのかを問うてくる。
何を頼りにしているのか。
お金なのか。
社会的地位なのか。
あなたを支えているもの、
あなたの心を支えているものは、何か。
律法の専門家も、金持ちの青年も、そして弟子たちも、
自分の心の王座に何が座っているのかを、あぶり出されていくように。
神は語る。
イエスは語る。
何を語るのか。
あなたの心を支えているものは、
何か。
初臨の出来事を通して、
読み手にそう語りかけているように見えてくる。
この二年ほど、
神が語り、人が応答する記録として、みことばと向き合ってきた。
そのなかで、身につけてきた神学の概念の枠組みを、ひとつずつ手放してきた。
自分の中の固定した思い込みも、手放してきた。
ただ素直に、みことばの前に佇む。
そうしているうちに、ここに至る。
立つ場所に、そのつど気づかされる日常。
そして、
雅歌をブログの題材にしてからは、毎朝、困りはてていたのだけれど、
今さらながら思う。
神は愛を語る。
人は、その愛に応答する。
雅歌は、その応答の記録なのかもしれない、と。
ようやく、雅歌の向き合い方が見えてきた。
これまで追いかけてきた人称も、主語も、捨てるものではない。
誰が語り、誰が応えているのか。
その動きを
、そのまま、
神の愛の応答として味わえそうだ。
さあ、仕切り直し。
つかみどころがなくて悩ましい雅歌の森を歩いてみよう。
最初に語り出すのは、誰なのか。
最後に語るのは、誰なのか。
その声は、誰に向かっているのか。

