
仮庵の祭り 2026
第一日 無料公開
2026年 仮庵の祭りへようこそ
神に導かれた旅を覚え、みことばを開く。
「仮庵(かりいお)の祭り」をご存じでしょうか。
仮庵の祭りは、聖書に記されている祭りの一つです。
2026年は、9月25日の日没から始まります。
聖書を開いて、この祭りがどのように語られているかを見てみましょう。
■ 旅の始めに定められた祭り
エジプトを出て二年目。
シナイ山のふもとで、神はイスラエルの民に「例祭」を定められました(レビ記23章)。
その一つが、第七の月の十五日から始まる仮庵の祭りです(レビ記23章34〜43節)。
【主】はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。
この第七の月の十五日には、七日間にわたる【主】の仮庵の祭りが始まる。」
レビ記23章33〜34節(新改訳2017)
最初の日には聖なる会合が開かれ、七日間、主にささげ物が献げられます。
そして八日目にも、聖なる会合が開かれます(35〜36節)。
七日間の祭りに、八日目が続きます。
■ 主の前で、喜び楽しむ祭り
この祭りは、土地の収穫を終えたときに迎える祭りでした(39節)。
神は、語られます。
最初の日に、あなたがたは自分たちのために、
美しい木の実、なつめ椰子の葉と茂り合った木の大枝、
また川辺の柳を取り、七日間、あなたがたの神、【主】の前で喜び楽しむ。
レビ記23章40節(新改訳2017)
実りを手に、枝を手に、七日間、主の前で喜び楽しむ。
仮庵の祭りは、何よりもまず、主の前で喜ぶ祭りです。
■ なぜ、仮庵に住むのか
さらに神は、七日間、仮庵に住むよう命じられました(42節)。
仮庵とは、一般に、木の枝や葉などで造る小屋のことです。
神は、その理由を語られます。
これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。わたしはあなたがたの神、【主】である。
レビ記23章43節(新改訳2017)
かつて、イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しんでいました。
神は民の叫びを聞き、彼らをエジプトから導き出されました。
行き先は、乳と蜜の流れる地(出エジプト記3章7〜10節)。
けれども、その途中には、荒野がありました。
神は、天からマナを与え、岩から水を与えて、民を養われました(出エジプト記16〜17章)。
■ 旅の先にある喜びの日
レビ記23章が語られたとき、旅はまだ始まったばかりでした。
この旅は、このあと四十年に及びます(申命記8章2節)。
それでも、旅の始めに、神は、主の前で喜び楽しむ日を、すでに定めておられました。
荒野を歩く民にとって、それは、旅の先に喜びの日が待っているという約束のようにも受け取れます。いつか、実りを手にする日が来る。
そのとき、導かれた旅を思い起こし、主の前で喜び楽しむ。
仮庵の祭りは、その神を覚え、喜び、後の世代へと伝えていく例祭として記されています。
■ サイト「いのちの朝ごはん」で迎える、初めての仮庵の祭り
2026年、サイト「いのちの朝ごはん」では初めて仮庵の祭りを迎えます。
神の御前で喜び楽しむ例祭のひとときです。
神の語りの中で守られながら、荒野を旅したイスラエルの民。
「神に導かれた旅を覚え、みことばを開く」八日間であればと思います。
祭りを迎えるたびに、神が民を導かれた旅を思い起こし、主の前で喜ぶ。
そして、その年に開かれるみことばに耳を傾ける。
初年度である今年は、マタイの福音書6章のよく知られる祈りを開きます。
その祈りの冒頭で、イエスは、弟子たちに語られました。
「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。」
ここで立ち止まりました。何を受けての「ですから」なのでしょうか。
また、誰に向かって、どのように祈るように語られたのでしょうか。
八日間、ギリシャ語の本文を一語ずつ確かめながら、
マタイの福音書6章で語られる、みことばの森を歩いてみたいと思います。
何が出てくるのでしょうねぇ。
それでは、みことばを開いていきましょう。
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2026 仮庵の祭り
第一日
「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。」
― ギリシャ語で味わう8日間の観察ツアー ―
2026.9.26(土)
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■ 「ですから」で始まる祈り
マタイの福音書6章9〜13節には、イエスが語られた「主の祈り」と呼ばれる祈りが記されます。
その冒頭で、イエスは言われました。
フートース ウーン プロセウケステ ヒュメイス
Οὕτως οὖν προσεύχεσθε ὑμεῖς
このように ですから 祈りなさい あなたがたは
「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。」
マタイの福音書6章9節(新改訳2017)
οὖν(ウーン)「ですから」と始まります。
何を受けての「ですから」なのでしょう。
その答えを探しに、祈りの前に語られたことば、マタイの福音書6章1〜8節へ戻って、
イエスが、何を語られたのかを確認していきます。
マタイの福音書6章に記された「祈りについて」。
観察のはじまりです。
■ 祈るとき、誰を見ているのでしょう
また、祈るとき、偽善者たちのようであってはいけません。
彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。
マタイの福音書6章5節(新改訳2017)
偽善者たちは、人に見てもらおうとして、会堂や大通りの角に立って祈ることを好みます。
彼らは誰に向かって祈っているのでしょう。
イエスは続けて言われます。
まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに報いを受けているのです。
事実「報いを受けている」
アペクーシン トン ミストン アウトーン
ἀπέχουσιν τὸν μισθὸν αὐτῶν
彼らは受け取っている その 報いを 彼らの
(動詞 ἀπέχω(アペコー)「受け取る」の現在・能動態・直説法・三人称複数形)
イエスは「いつか報いを受けるでしょう」とは語られません。彼らは、もう受け取っています。
では、何を受け取ったのでしょう。
もう一度5節の前半を見てみます。
偽善者たちが、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む理由が記されています。
ホポース ファノーシン トイス アントローポイス
ὅπως φανῶσιν τοῖς ἀνθρώποις
〜するために 彼らが見られる その 人々に
(動詞 φαίνω(ファイノー)「現れる、見える」のアオリスト・受動態・接続法・三人称複数)
「人々に見られるために」です。
彼らが求めていたのは、人に見てもらうことでした。
彼らが受け取った報いとは、人に見てもらうことで得られる評価や承認なのかもしれません。
■ σὺ δὲ(シュ デ)「しかし、あなたは」
6節で、ことばの向きが変わります。
イエスはここで、わざわざ「あなた」という一語を置いて、一人に向かって語り始められます。
あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。
そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、
あなたに報いてくださいます。
マタイの福音書6章6節(新改訳2017)
「奥の部屋」と訳されたことばは、ταμεῖον(タメイオン)。
辞書では「奥まった部屋、倉」、人の目がまったく届かない場所です。
■ 二つの報い
ここで、二つの報いが向かい合っています。
5節 人に見てもらう 彼らは報いを受けている。(現在形)
報いを「人々が与えた」とは書かれていません。
人に見られることを目的とし、その報いをすでに受け取っている、と語られています。
6節 隠れたところで父に祈る 父があなたに報いてくださる。(未来形)
報いてくださるのは父だと、はっきり書かれています。
日本語では、どちらも「報い」ですが、ギリシャ語では別のことばです。
5節の「報い」は μισθὸν(ミストン)。
基本形は μισθός(ミストス)。名詞です。
6節の「報いてくださる」は、ἀποδώσει(アポドーセイ)。
基本形は ἀποδίδωμι(アポディドーミ)、辞書では「返す、支払う」動詞です。
偽善者たちは、報いを、人から受け取り終えています。
しかし、あなたへの報いは、父がこれから支払ってくださいます。
同じ「報い」の話ですが、誰から受け取るのか、いつ受け取るのか、が正反対になっています。
■ 施しのときも
ところで、「報い」ということばは、祈りについて語られる前にも登場しています。
少し前の、6章1〜4節に戻ってみましょう。
人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。
そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。
マタイの福音書6章1節(新改訳2017)
「善行」と訳されたことばは、δικαιοσύνη(ディカイオシュネー)。辞書では「正しさ、義」です。
そして2節は、「ですから」で始まります。
ですから、施しをするとき、
偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、
自分の前でラッパを吹いてはいけません。
まことに、あなたがたに言います。
彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
マタイの福音書6章2節(新改訳2017)
1節で「義」について語られたあと、「ですから」と続けて、施しの話が始まります。
1節は、そのあとに続く教えの入口に置かれています。
■ 同じことをしているのに
2節をよく見ると、「あなた」と「偽善者たち」が、同じ動詞で語られています。
あなたが施しを「する」 ποιῇς(ポイエース)
偽善者たちが「する」 ποιοῦσιν(ポイウーシン)
形は違いますが、基本形はどちらも ποιέω(ポイエオー)「する、行う」。どちらも、施しをしています。
では、何が違うのでしょう。
ホポース ドクサストーシン ヒュポ トーン アントローポーン
ὅπως δοξασθῶσιν ὑπὸ τῶν ἀνθρώπων
〜するために 彼らがほめられる 〜によって その 人々
(δοξάζω(ドクサゾー)のアオリスト・受動・接続法・三人称複数:栄光を与える・崇める・ほめたたえる)
「人々からほめられるために」
違うのは、何のためにするのか、でした。そして2節も、5節と同じことばで結ばれます。
アペクーシン トン ミストン アウトーン
ἀπέχουσιν τὸν μισθὸν αὐτῶν
「彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」
■ 施しも、祈りも
実は、祈りの場面でも同じことが起きています。
5節では、「あなたがた」も「偽善者たち」も、
同じ「祈る」という動詞 προσεύχομαι(プロセウコマイ)で語られていました。
並べてみます。
施し(2節) あなたが「する」、偽善者たちも「する」 ποιέω(ポイエオー)
偽善者たちの目的 人々からほめられるために
祈り(5節) あなたがたが「祈る」、偽善者たちも「祈る」 προσεύχομαι(プロセウコマイ)
偽善者たちの目的 人々に見られるために
していることは、同じです。違うのは、何のためにするのか。誰を見ているのか、です。
偽善者の施しについて語られた後、イエスは再び「あなた」に向かって語られます。
あなたが施しをするときは、
右の手がしていることを左の手に知らせないようにしなさい。
マタイの福音書6章3節(新改訳2017)
偽善者たちは、人々にほめてもらうために施しをしていました。
ところがイエスは「あなた」に向かって、右の手がしていることを左の手に知らせないように、と語られます。その理由が、4節にあります。
あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。
そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、
あなたに報いてくださいます。
マタイの福音書6章4節(新改訳2017)
ここでも「報いてくださる」は、6節と同じ ἀποδώσει(アポドーセイ)です。
偽善者たちは、報いを、人からもう受け取り終えている。あなたへの報いは、父が、これから支払ってくださる。
では、この「隠れたところで見ておられるあなたの父」とは、どなたでしょう。
■ 天におられる父、隠れたところにおられる父
1節と6節を並べてみます。
トー パトリ ヒュモーン トー エン トイス ウーラノイス
τῷ πατρὶ ὑμῶν τῷ ἐν τοῖς οὐρανοῖς
天におられる、あなたがたの父(1節)
トー パトリ スー トー エン トー クリュプトー
τῷ πατρί σου τῷ ἐν τῷ κρυπτῷ
隠れたところにおられる、あなたの父(6節)
同じかたちです。
「天」があった場所に、「隠れたところ」が入っています。
「あなたがた」は、「あなた」になっています。
天とは、人の目が届かないところ。人の舞台の外側なのかもしれません。
天におられる父は、遠くにいるだけの方ではありません。
人の目が一つも届かない場所で、「あなた」を見ておられる方です。
偽善者たちは、人に見られることを求めました。
けれども父は、見せようとする前から、すでに見ておられます。
■ ことばを重ねる祈り
また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。
彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。
マタイの福音書6章7節(新改訳2017)
今度は、偽善者ではなく、異邦人の祈りです。5節は、人々に見られようとする祈りでした。
7節は、ことばを重ねて聞いてもらおうとする祈りです。「見られる」から、「聞かれる」へ。
エイサクーステーソンタイ
εἰσακουσθήσονται
「彼らは聞き入れられるだろう」
ここで、2節、5節、7節の動詞を並べてみます。
2節 δοξασθῶσιν(ドクサストーシン) ほめられる
5節 φανῶσιν(ファノーシン) 見られる
7節 εἰσακουσθήσονται(エイサクーステーソンタイ) 聞き入れられる
三つとも、「受動態:〜される」という形です。
ほめられたい。見られたい。聞き入れられたい。
どれも、人の側から何かを差し出して、受ける側に立とうとする姿です。
■ 求める前から知っておられる父
ですから、彼らと同じようにしてはいけません。
あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、
あなたがたに必要なものを知っておられるのです。
マタイの福音書6章8節(新改訳2017)
2節にも、8節にも、そして9節にも、「οὖν(ウーン)ですから」。
「父は、求める前から知っておられる。」
オイデン ガル ホ パテール ヒュモーン
οἶδεν γὰρ ὁ πατὴρ ὑμῶν
知っておられる なぜなら その 父は あなたがたの
何を知っておられるのでしょう。あなたがたに必要なものです。
まだ一言も口にする前から、父は知っておられます。
ここまでの、イエスが語られた父を並べてみます。
天におられる父。(1節)
隠れたところで見ておられる父。(4節)
隠れたところにおられる父。(6節)
求める前から、必要なものを知っておられる父。(8節)
見せようとする前から、見ておられる父。
求める前から、知っておられる父。
■ 「ですから」の前にあったもの
9節の冒頭「οὖν(ウーン)ですから」。
その前にあったのは、祈りの教えだけではありません。
父についての語りです。
フートース ウーン プロセウケステ ヒュメイス
Οὕτως οὖν προσεύχεσθε ὑμεῖς
「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。」
マタイの福音書6章9節(新改訳2017)
1節では「天におられる、あなたがたの父」。
6節では「隠れたところにおられる、あなたの父」。
そして9節で、祈りはこう始まります。
パテル ヘーモーン ホ エン トイス ウーラノイス
Πάτερ ἡμῶν ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς
「天にいます私たちの父よ。」
奥の部屋に一人で入った「あなた」が、最初に口にすることばは、
「私たちの父よ」です。
祈るとき、誰を見ているのでしょう。
問われているのは、自分がどこを向いているかです。
最後に、ギリシャ語本文で味わってみましょう。
マタイの福音書6章9〜13節
日本語訳は新改訳2017
パテル ヘーモーン ホ エン トイス ウーラノイス
Πάτερ ἡμῶν ὁ ἐν τοῖς οὐρανοῖς·
天にいます私たちの父よ。
ハギアステートー ト オノマ スー
ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου·
御名が聖なるものとされますように。
エルテトー ヘー バシレイア スー
ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου·
御国が来ますように。
ゲネーテートー ト テレーマ スー
γενηθήτω τὸ θέλημά σου,
みこころが行われますように、
ホース エン ウーラノー カイ エピ ゲース
ὡς ἐν οὐρανῷ καὶ ἐπὶ γῆς·
天で行われているように、地でも。
トン アルトン ヘーモーン トン エピウーシオン
τὸν ἄρτον ἡμῶν τὸν ἐπιούσιον
私たちの日ごとの糧を、
ドス ヘーミン セーメロン
δὸς ἡμῖν σήμερον·
今日もお与えください。
カイ アフェス ヘーミン タ オフェイレーマタ ヘーモーン
καὶ ἄφες ἡμῖν τὰ ὀφειλήματα ἡμῶν,
私たちの負い目をお赦しください。
ホース カイ ヘーメイス アフェーカメン
ὡς καὶ ἡμεῖς ἀφήκαμεν
私たちも、
トイス オフェイレタイス ヘーモーン
τοῖς ὀφειλέταις ἡμῶν·
私たちに負い目のある人たちを赦します。
カイ メー エイセネンケース ヘーマース エイス ペイラスモン
καὶ μὴ εἰσενέγκῃς ἡμᾶς εἰς πειρασμόν,
私たちを試みにあわせないで、
アッラ リューサイ ヘーマース アポ トゥー ポネールー
ἀλλὰ ῥῦσαι ἡμᾶς ἀπὸ τοῦ πονηροῦ.
悪からお救いください。
三つの「あれ?」
● 一つ目の「あれ?」
三つの行の終わりに、同じ一語 σου(スー)「あなたの」が繰り返されています。
ハギアステートー ト オノマ スー
ἁγιασθήτω τὸ ὄνομά σου
御名が聖なるものとされますように。
エルテトー ヘー バシレイア スー
ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου
御国が来ますように。
ゲネーテートー ト テレーマ スー
γενηθήτω τὸ θέλημά σου
みこころが行われますように、
日本語訳では、「御名」「御国」「みこころ」。
「あなたの」は、敬語の「御」「み」の中に溶け込んで、見えなくなっています。
● 二つ目の「あれ?」
ホース カイ ヘーメイス アフェーカメン トイス オフェイレタイス ヘーモーン
ὡς καὶ ἡμεῖς ἀφήκαμεν τοῖς ὀφειλέταις ἡμῶν
「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」
日本語の語順と、ギリシャ語の語順が一致しません。
● 三つ目の「あれ?」
「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり」
がない!!
この結びは、古い写本の多くには見られず、後の時代に加えられたものと考えられているようです。
ここで用いているギリシャ語本文は古い写本に基づいていますので、
13節は「悪からお救いください」で終わります。
新改訳2017の本文にも、この結びは入っていません。
長い間、教会が神をほめたたえる応答として祈り続けてきたことばです。
ただ、この八日間は、イエスが弟子たちに語られた本文を、一語ずつ味わう旅として
「悪からお救いください」までを歩きます。
「ですから、あなたがたはこう祈りなさい。」
八日間の観察のはじまりです。